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		<title>■アニメむかし語り</title>
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			<title>大塚さんとフィアット５００</title>
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			<description>　ハッと気づくともしかして私は老人？と言う年齢になった。そんな自覚は全くなかった。先輩方が達者なうちは自分は若者だと思い込んでいた。とんでもないモラトリアムだった。そう、新幹線ゼロ系が４５年目に引退し、開通前年にアニメ界に入った私はすでにベテラン？否、シーラカンスになっていた。いつの間にか昔語りがふさわしい年齢になっていたのだ。昔の話と言っても、そうそう面白い話があるわけでもない。だが、業界には変った人は多いのでネタには困らないだろう。とは云ってもアニメ界に入ったところから書き始めるのでは小学生の遠足の作文のようで芸がない。誰でも知っている人から入ろう。大塚康生さんだ。一時期アニメ界は自動車ブームに沸いた。大塚さんはその火付け役だった。アニメ昔語り?　「大塚さんとフィアット５００」　現在でもサンライズ、ＴＭＳとスタジオをいくつも分散して持つ会社は多い。そのはじめが虫プロだった。富士見台の手塚先生自宅に併設したスタジオが手狭になり、アパートなどを借りてそれぞれの作品の制作を行っていた。その中でも一番ゆとりのあったのが第五スタジオだった。立ちゆかなくなった幼稚園を丸ごと借り上げてスタジオとしたもので、スペースは十分にあり、虫プロ班に加え私が所属していたアートフレッシュ、ファンタジア、その他、美術、仕上げも集まってシリーズがまかなえる体制が全て整えられていた。虫プロの歴史においても重要な時期だった。アトムが終わり､モノクロがカラーになり虫プロも時代もアトム以降を模索していた。5スタは悟空の大冒険を準備する大変な時期でもあったが、我々と言えばのんきなものだった。暇な時間をもてあますわけでもなく幼稚園の庭でひなたぼっこを楽しんだり優雅に過ごしていた。夏が近づこうとしていた。夜型の連中はまだ出て来ていない。長い昼休みも終り庭で遊ぶのも飽きて動画机にタップを取り出し、さて何をやろうかと迷っていると庭でパランパランと乾いたエンジン音が停まった。……誰か来た？　日射しが差し込む開けっ放しの引き戸から入った来たのは、見知ったハンティング帽姿。大塚さんだ。｢あれ！ギッチャンも統ちゃんも誰もいないの？オクダくんは留守番」｢はい……｣（まだ出て来てないとは言えない）｢そうかあ……｣（大先輩を前に間が持たない）｢あ、大塚さん車ですか？｣（思いつきを口にする）「そ、そうなんだ。見てみる？」嬉しそうに庭に向かう大塚さん。「ええ！見せてください」（用事ってこれだったんだ！）そこには小さな灰色にちかい白の車。（軽？）一瞬出たばかりのスバル３６０を思い浮かべる。だがどこか違う。その気分をを察した大塚さん。ちょっと不本意。｢外車だよ！外車。ほら左ハンドルだよ」確かに左ハンドル。だが、この小ささは、まさに軽。右側ドアを開けてくれる。「ほら乗ってごらん。見た目よりは中は広いんだよ」確かに室内は広い。今と比べてで､パイプ椅子のようなシートが新鮮に見える。割り箸のようなシフトノブ。８０?の私が乗り込む。ギシリと助手席側に車体が沈み込む。サスは思ったより柔らかい。エンジンをかける。始動時はアクセルを踏み込まずチョークで調節するとの説明。エンジンがかかる。５スタの誰も興味を示さない。やはり軽だと思われているようだ。土埃を上げて5スタの庭で方向転換して外へと向かう。エンジンはパラパラと軽快に廻る。大塚さんはこまめにシフトとクラッチワークを繰り返して加速する。ちなみにギアはノンシンクロ、ロ−に入れるだけでもクラッチ操作が必要だった時代だ。５スタから二度左折住宅地を抜け、練馬の丸い二つのガスタンクを目指して走り、十三間道路も左折。路幅が広くなって大塚さんは身を乗り出すと一気にアクセルを踏む。加速するフィアット５００！と言っても今のエンジンに比べれば非力、そんなにスピードは出ていないのだが薄いドアと内装、そして振動がスピード感を倍加させる。しかも車体は小さい。十三間道路を疾走するフィアット５００！ヒュンとすれ違う対向車がミラー、スレスレをかすめる。対向車運転者の非難のまなざし？そこで気付く！何とセンターラインは私の左にある。私の身体は対向車線！？対向車が何台もかすめる。｢大塚さん！僕はセンターラインを出ているんですが｣｢うん、外車だから……｣｢あの、外車だからって……！」ステアリングを左へ少し戻してくれる。当時の車のステアリングはけっこうクイック、それだけですっと私はセンターラインの内側へ戻る。やれ安心と思ったのもつかの間、すでに大塚さんは“外車”であることを忘れて気持ちよく飛ばす。｢あのう……｣大先輩の機嫌を損ねてはいけない。遠慮がち。「なに？」「またセンターラインが」「ああ、そうだね……」戻す。「あ……！！」懸命に足を突っ張る。当時はシートベルトなんてものはない。（腹部だけのベルトが法制化されたのも何年か後、三点式になったのはだいぶ後のこと）左手をダッシュボードに右手で天井を支える。（あまりあからさまには出来ない）冷や汗が流れる。「暑い？三角窓あけると良い風が入るよ」「は、はい……（汗）」キュッとロックを外して三角窓を開けるとすさまじい風が吹き込む。そうこうしているうちに谷原の交差点。真っ直ぐ行けば東映動画スタジオ。そこを右折。きれいな舗装の道路に出る。当時、力の入った“オリンピック”道路だ。今や環八の一部となったこの道路は“戸田ボートコース”と都内をつなぐために整備され、我々のテストコース代わりによく使われていた。話は外れるがほかに､まだ開通していなかった、ぶつ切れの“新青梅街道”がゼロヨンのテストコースでもあった。もう“外車”にも慣れた大塚さんがアクセルを踏み込む。二気筒エンジンがバイクのようにうなり小さなタイアが地面を蹴る。思ったよりうるさくはない。「ほら、エンジン後ろだからね､リアエンジン、音はみんな後ろに抜けるから」「はい……」「もう少しで８０?いくからね！」大塚さんの声も心なしか緊張している。「……」　８０?、ちなみにこれは間違いではない。当時、この小型車で８０?というのは大変なスピードである。倍の１６０?（１００マイル）など出る国産車などまだ存在しなかった時代だ。エンジン回転が上がり振動が高周波にちかいビビリ音に変る。メーターが限界に達する。「ほら、リアエンジンは説明したよね。リアエンジンて全部エンジンの重さが後輪にかかるから駆動力が無駄にならないんだ。ドイツ車はポルシェでもワーゲンでもこの方式なんだ。フィアットはイタリアだけど５００ｃｃでも８０?出るんだよ。」「はい……」「でもね、欠点もあるんだ。ここまで出すとね、ほとんどステアリングが効かないんだよ」「え……？」「ほら、ほら」左右にステアリングを動かす大塚さん。前部の浮いたフィアットはそれでもかろうじて直進を続ける。（でもそれって！）８０?を超えると前部が浮くリアエンジン車。しばらく後、おなじ5スタの仲間だった吉川惣司がリアエンジン車“ルノー”で大事故を起こす。アクセルは踏みっぱなしで反応しないハンドルのデモンストレーションが続く。「あ、あ、あ、あ〜」それでも車は直進。ボートコースまでは行かず途中の宅地造成地でＵターン、強運の二人は無事5スタへと帰り着く。戻っていた杉井ギサブローさん。「よかったねオクチン、外車にのれて」「はい……」　お目当ての杉井、出崎、二人とフィアット５００を前に車談義が弾む大塚さん。気付けば5スタの庭を夕日が照らしガラス窓に反射する。水飲み場の影が長い。虫プロ第五スタジオ、多くの侍が集った思い出のスタジオだ。４０年前……あの頃の夕日はことさらに鮮やかだった気がする。</description>
			<pubDate>Sat, 09 May 2009 10:59:15 +0900</pubDate>
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